バイオレットフローライト







「すまない……」


それが、幼さを内面から全て放った最後の瞬間だった。
その時の事を、彼は今でも鮮明に覚えている。





血の雨が、降り注いだ。
自分達の目の前で、漠然とした、風景の中で。
何でこんなものが降ってきていたのか、瞬時に理解する事は、不可能だった。
というより、体…五感全てが、その事を否定し過ぎていた。


―――ああ、殺されたのだ。


皆、父上も、弟達も。
己が愛した妻子達も、皆全て。


火矢ならぬ、血雨。
此処血悪い、滑らかに伝うそれらが、痛い程叫びを放つ。
梟された、鈍い音の数々が耳の奥までも聞こえてくる様だ。
矢なんかで体を射ぬかれるよりも、酷く痛みを持つ。


「ああ……どうして、どうして―――」



殺してしまった。全て、全て。
この手に残るものは何もない。



「止めろ――嫌だ、嫌、だ…………ぁぁ」



堕落していく、何かが己の中から、零れ落ちてゆく。
落胆した気持ちとは比にもならぬ程、全てが重く、冷たく。
差し伸べようとした腕も動かぬ、泥沼に落ちたかの様に。
からん、からん……何か、軽くて白い物が落ちてくる。
剣呑した表情が、表れては消えてゆく。



はらり、と途切れる最後に紅い花弁が散った。










――この頃、あの夢から覚めると手元には夢で見た、そっくりの花弁が落ちている。
誰が持ってきたものかも知れぬそれさえも忌々しくて、毎回火の中に放り込んでいた。

見たくはない、なのに。
目を開ければ手元にあるそれは、日に日にその紅さを増している気がするのだ。
以前よりも濃く、より人の流す血に近く―――…
どうしてそう見えるのかも分からずに、より赤い炎の中へと突っ込んで、白き灰にした。

……下らない。

苦々しい過去をこれ以上、悲観するつもりはなかった。
だが、周囲からはそう見えてしまう様で度々岱にも心配を掛けてしまう。
誰にも告げる事のない、告げられる事のない、真実は今も己の奥底に眠っている。
馬超は寝起きで重い体を起こし、部屋を出た。



「お早う御座います、従兄上」
「ああ、お早う…岱」
「昨夜はよくお休みになられましたか」
そう言って、よく冷えた冷水を目の前に差し出してきた。からん、と乾いた音が零れる。

「まぁ…ぼちぼち、か」
「そうですか」
馬岱はそれ以上何も云わず、手早く朝食を並べていた。相変わらず、丁寧に作られているおかずの数々。
自分がこの蜀の食べ物にまだ馴染みきっていない事も分かっていて、馬岱はなるべく故郷の味に似る様にと、工夫してくれていた。
その気遣いが、馬超にとっては何よりも助かっている。
馬超はそれこそ口にはせぬものの、それでも感謝しているという態度は失わずに、丁寧に毎朝“頂きます”と両手を合わせていた。
それは律義な、と周りからすればそれだけで済まされるが、この二人の間では何だか丁寧で温かい感謝の交わし方でもあった事は今までと変わりない。
それは長らくの付き合いであり、その内に巧みに構成された日常。
この時が、何よりも馬超にとっては休まる時である。
嫌な事も、良い事も一旦途切れて、静寂が訪れる一時。

「この魚は、前は煮込んでいたか」
「ええ、よく覚えていらっしゃいましたね」
「うん、ご飯も上手いな」
「それは良かったです」
ささやかに交わされる言葉にも、微かに感謝は含まれているのだという事を、馬岱は嬉しそうに返答する。
それに付け加える様に、終わりに飲んだ味噌汁は心をより温めてくれた。

「御馳走様」
「はい、従兄上…気を付けて」
そう言って差し出すのは、いつも手入れが綺麗に施された鉄槍。
「ああ、済まないな」
馬超はその親切を丁寧に受け取って、自邸を発つ。外に出ると未だに雪は残っていた。
微かに寒い風が頬を撫でる。



この時もまだ気は落ち着いていて、至って表情には何も現れない。
日が、今日は心地よいくらいに上がっていた。


「……雨は、なさそうだな」

独りでにそう呟いて、馬を駆る。
カカッ、といつもの土を蹴る音だけが掠めて消えた。紛れ込んだ雪もすぐに泥と混ざり合って形を無くしてゆく。
目指すは蜀の本拠地にあたる成都の中心部だった。





「――お久しぶりですね、馬超殿」

「…貴殿は」
「覚えて下さっていましたか?」

ああ、その独白さを感じさせる微笑みには覚えがある、と馬超は記憶の片隅を探って掘り出す。
それはすぐに記憶の何処かから繋がり、言葉が口から出された。


「確か趙子龍殿、だったな」
「ええ、覚えて頂いていて光栄です」
忘れていたら、と悪戯っぽく聞き返せば、そうだったらまた名乗り直しますよ、と笑って返された。
実に奔放な雰囲気を漂わせる男である。
そして同時に、酔狂になっている己自身にも僅かだが戸惑っている、そんな感じであった。

「今日の午後はお暇でいらっしゃいますか?」
「―――午後、か。 まぁ空いてはいるな」
「良かった。…では、約束通り手合わせでも致しませんか?」
「……」
「それとも別の御用事でも?」
「…いや、ただ…」
「ただ?」
馬超は、一息付いてから言葉を継いだ。
「俺にこんな干渉する奴も珍しい、と思ってな」
…てっきり、その場で話を合わせていただけだと思っていた。単なる会話の接合であったと。
少なくとも、馬超の方は。
「そうですか?私はあれから一層槍を持つ時間が増えましたよ」
――だから負けません、と自信ありげに槍をくるっと回す。
手慣れたその動作は実に数秒、風が小さくひゅおっ、と音を立てた。
「……貴殿の様な奴は本当に珍しい」
皮肉に近い呟きと同時にくすりと笑みを零し、いいだろう、と返事をする。
するとすぐに、相手は嬉しそうな顔を見せた。
「有難うございます、てっきり忘れていたりして、知らんと断られるのではないかと」
…実は忘れかけていた、と吐露すると趙雲はでしょうね、と軽く相槌を打って流した。

「午後を楽しみにしています」
それだけ交わして、二人は別れた。


「……本当に、変わった奴だ」





午前は、まだ入隊したての兵卒達の訓練に付き合うとの事で、それはあっという間に過ぎていった。
午後に差し掛かってから日差しを強めた太陽が、やんわりと地の残り少ない雪を溶かしていく。
自分がああしていた頃はもっとずっと若かっただろうか、と彼は思い起こしていた。
そして、よくホウ徳殿と手合わせして貰っていたものだった。
「……懐かしい」
酷く、眩しくて。
自分はまだ実のところ、彼らよりも若いなどと到底思えはしなかった。

ホウ徳殿も、別れてから数年になる。
今頃はどうしているのだろうか。結局彼の若い頃はどんなであったかと聞く機会は得られなかったが。
それでも、今も何処かでその背を追っている様な気持ちに駈られるのは、何故なのだろう。



「馬超殿?」
「―――ああ、もうこんな時間か」


照り付ける太陽が、眩しく感じた。
馬超は我に返ると、ほんの一時だけ感慨に耽っていたのだと思い、少し寂しく思った。

つまりは、過去が懐かしくもあった、から。
酷く血に隠された過去には、本当に幸せであった事も混じっていた。
それが思い起こされる様な気がして、あわよくば、と貪欲にも貪ろうとまでして。
結局は、また隠れてしまった。隠してしまった。
けれどもそれでもいいかと思う。
過去は、結局は過去でしかないのだから。

あの灰に落とした紅蓮の花の様に。



「……こんにちは、此処で、宜しかったですか?」
再度念を押してきた相手は、酷く余裕染みている様に聞こえた。
「構わん。此処なら伸び伸びと闘り合える」
答えてから、自分の鉄槍を構える。馬岱が、懇切丁寧に毎日手入れをしてくれる、その槍を。


「―――では…」

「……いざッ!!」


駆った地の匂いは、酷く太陽の匂いが、していた。

掠れ合う、槍と槍。
微かに触れるだけで、それらは激しい金属音を響かせた。

馬超が先にぐっと腹部の中心を狙った所を、趙雲は素早く機転を利かせて身を退く。
ふあっと上がった砂煙が、相手の槍の穂先を隠す様に多い、すぐにそれは斬られて鋭い刃が覗く。
自分の持つ槍がそうである様に、相手の持つ槍もかなり手入れが行き届いているのが伺えた。
程良い緊張感が体中に満ちていく感覚。

彼の放つ槍術は、まるで龍の牙の様だ――――
確かにそれは子龍の字、そのもの。恐らく、これから先ももっと強くなるだろう。

僅かに形や達筋は違えど、力量はあまりにも変わらぬもので。
びりびりと震える振動が、堪らなく心地よい快感を与えてくれる。

―――楽しい、な。

そう思った稽古は、久しぶりの事だ。
ホウ徳殿以来、一度たりともこうやって真剣に闘り合った記憶は無いに等しい。
馬岱とは度々闘り合っていたものの、ここまではいかなかった。
それはもっと若い頃に似た、強さを求めていた頃からの隔たり。
今の姿を見て、自分自身、どう思うのだろうか?


そう考えていた時、目の前に槍が迫った。

「! 、っ」
一旦思考を踏み留まらせ、足をしっかりと大地に下ろす。
がっ、と突っ掛る前の、ぶつかり合う音が響き、砂利がざりっ、と踏み躙られる音が混ざった。
「く、うっ!」
「……!」




カァ―――ン……



二つの槍が、同時に落ちた、音がした。

「…はぁ」
「引き分け、ですか」

「……すまん」
馬超は、此方に顔を向けずに槍を拾う。

「何を、考えておられたのです?」
趙雲は此方を見ずに問うた。
「貴殿は本当によく見ておられるな…」
呆れる程に、と言えばいいのか。
「誰でもと言う訳ではありませんが、こういう時は鋭いのですよ」
だから気を付けた方がいいですよ?と不敵な笑みと共に警告される。
「無駄な気遣い、心得させて頂く」
皮肉っぽく言うと、
「あまり信じておられませんねぇ」
と趙雲は苦笑する。
この時間が、馬超にとっては酷くもどかしい。

くすぐったい感覚にあまり身を寄せていると、すぐに流されてしまうから。
いい加減に少し諦めねば、とも思うのだがそれは無理な事だった。



「…どうです、休憩がてら、私の邸で休んでいかれませんか」
一息付いてから、趙雲はそう言ってきた。
「……構わないのか」
「ええ。どうせ、誰も居ませんし」
趙雲はさらりとそう言って馬超の手を引いた。彼の、思ったよりもがっしりとした掌に握り込められる。
「馬超殿の手は、冷たいのですね」
「…趙雲殿は、俺よりも温かいな」
「そうですね」
何気ない会話でも、こうして彼と過ごせる時に、趙雲は微かな喜びを感じていた。
彼がどう思っているのかは分からないが。

「…話を戻しましょうか?」
「何のだ?」
「先程の、」
趙雲はきっとその事がまだ引っ掛かっていたのだろう。
しかし馬超にとってはあまり聞いてはほしくない事だった。
「…言わなければならないか?」
以外にも、返した言葉が重々しく響いた。思わず、喉に手を当てる。
余りにタイミングも悪いものだ。続いて舌打ちが出そうになったのを馬超は寸での所で止めた。
「いえ、貴方がそうおっしゃるのなら、別に」
趙雲は失礼しましたとばかりに言う。
「いや…というか、自分でもよく分からぬ事を考えていたのだ、大した事では―――」
「そうですか?」
「…貴殿との手合わせを、過去と照らし合わせていた」
馬超は目を細めて言う。
趙雲の姿を、最も私淑していた彼の姿と。
「ほう…一体どんな?」
「貴殿よりも、更にお強い方と手合わせしていた時の事だ」
「それは…妬けますね」
趙雲は苦笑し、何とも言えぬ表情に変わった。
「…何、俺や貴殿よりも大分歳を重ねている者だ、いずれは追い付けよう」

……否、越えねばならない。そうならねば、自分はいつまでも滞った道を歩む羽目になるだろう。
過去を背負った上で、望んだ報復、見に抱き続けた虎児を得ぬまま。
その身を朽ちさせてゆくのだろう。


時とは、こんなに、これ程までに残酷なものだったろうか。
大切な事を忘れる事も出来るし、どうでもいい事を彷彿とさせる。



「馬超殿」
「ん」

「貴方は…時折、全く別の場所に居るかの様に見えます」
「そう見えるのか?」
「……こうして、今も私と居るのに…貴方は、違うものを見ている様に」
「……そうかも、しれんな」
答えと擦れ違う様に、趙雲の表情が悲しげに影を落とす。

「……何故」

何故、貴殿がそんな顔をするのだ。
貴殿が関係している事ではないのに。


「趙雲殿」
「…すみません」
「何故、謝る必要がある」
「出しゃばって、言い過ぎたかも、…しれません」
声は酷く穏やかだが、聞く者を引き寄せる様にその声は暗さを帯びている。

怖い男だ。
彼は、今までに会った事のない、性質を秘めている。
もしかしたら、己はこれ以上彼に近づくべきではないのかもしれない。

「……確かに、貴殿の言った事は強ち間違ってはいない」
「…尚更、です」
「いい、俺も失礼な事をした」
「………」
二人は、黙ったまま、焦点が合わないままに、ただぼんやりと景色を見ていた。
音も余り聞こえず、妙に静けさに満ちる。


「…もう一つ、無粋を承知でいいですか?」
再度開かれたその口から発せられた言葉は、更に冷たさを帯びていた。
「構わんが」




「…貴方は、どうしてそんな寂しそうな顔をなさっているのですか?」




いつも、いつも。

何故、なのですか…………?




「俺は……」

「私では」
きっぱりと、そしてしっかりと、趙雲は言った。
そしてすぐに、穏やかで低い口調になる。
何かに泣きすがる様に、何処までも響く。

「…御力に、なれませんか?」


どうか。

貴方が、その表情をなさらぬ様に。











誰かが。

名も覚えていないくらい忘却の彼方に押し寄せられた、記憶の一つに。




“貴方の御力になれるのであれば”




そう言った。そう聞いた。
その次の瞬間が、“彼”の終焉だった。
己が信じたのは、もう既に散って何も残っていない。





……ああ。


なんて。









「……………下らん」


愚かしい。何故人はその言葉の一つ一つを信じるのか。
幾何も繰り返す言葉の誤りを、どれだけ蘇らせれば気が済むのか。
馬超の中で、数多の苦々しい痛みと、苦しみがその心を覆った。先程までの温かな感覚が嘘の様に凍っていく。
それは体中の血が冷えていく様な感覚にも、似ていた。


「馬超殿……」
がたん、と馬超は荒々しくその身を立たせると、趙雲の事など眼中に無いまますたすたと邸の外へ出た。
外でまだ木の太い枝にに溜まっていた雪が、時を待っていたかの様にずしゃりと崩れ落ちる。

「馬超殿!」
その後を趙雲はすぐに追いかけて肩を掴む。しかしその掴んだ手はあっさりと薙ぎ払われた。
そして、初めて趙雲が彼と会った時の様に、いやそれ以上に冷徹な瞳が趙雲を睨んだ。

「触るな」

酷く嫌悪されているかの様に突然付き離され、趙雲は愕然とした
足元から影が押し寄せ、一気に吸い込まれてゆく様な感覚が彼を襲う。
やはり言うべきではなかったのか、と激しい後悔を彼の中に齎すが口に出して言ってしまった後では弁解のしようもない。
だが、それでも何故か趙雲はその時無意識に、喘ぎ出す様に彼に問うていた。


「…っ馬超殿は!…誰も…信用、なさらないのですか………っ!!」

絞り出す様に喉から出した言葉も、馬超にははっきりと届く事はない。
馬超はもう振り返ろうともしなかった。
その様子に、思わず趙雲は声を荒げてしまった。


「私は……私は、馬超殿の受けてきた苦しみなど…分かりません………ですが!」

外の気温の低さに、息は目でもくっきりと捉えられる程白くなっている。



「私は…貴方の苦しみを、少しでも…取り除いてあげたいんです……!!」
その言葉には、確かな真意が混ざり、震えを帯びていた。
確かに、偽りなどでは無く。


「………」

「……お願いですから……」
趙雲の言葉はもはや願いそのもので、普段持ち合わせている冷静さなど微塵も見られなかった。
それ程までに、自身が気が付かぬうちに本心を曝け出していたのである。


「馬超殿…」


「黙れ」


非情にも、趙雲の本心は馬超に否定される形となって、跳ね返された。
趙雲は体が芯から冷えてゆく感覚に襲われた様だった。 





「貴様如きに、俺の苦しみが分かって堪るか」






それだけ吐き捨てて、馬超は痕も振り返る事無く趙雲の前から去って行った。
後には、彼の残した足跡が雪の上に残るだけだった。






End


以外に長引いた、しかも趙雲半ば振られ状態↓↓
馬超は思ったよりも固い様です…打ち解けるのもきっと当分先なのかな(汗
がんばれ、肝………! 2010、3、23



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