生温い風が髪を撫でた。
どくん、どくんと心臓が激しく脈を打ち出す。息苦しい程の死臭が辺りを包み込んでいるこの戦場は、いつもよりも辛く感じた。
どんよりと戦う者達の足元は沈んだ様に暗い。ぼんやりとその前方でセインが相手を斬っているのが見える。

「……ふぅ…」
自然と溜息が零れるのはいつもの事だ。
ケントはこうして戦で人を斬る事が好きでは無かった。
今の今までも同じ様に手にする剣で人を斬ってきたにも関わらず、未だにこの感覚には慣れない。
人を斬った時の感覚が剣を伝わり、この手までがすっかりその感覚に馴染んできてしまっていても、その感覚を好きにはなれない。
それでも隊長である立場上、逃げる事などはもってのほか後方に退く事などあり得ない。
吐き気を催しても、目を背けたくても、逃げる事は許されない。


何故ならば、自分がこの騎士団の隊長であるから――――










神に祈るかわりに













時折、夢であれば良かったのに、と思う。

戦う、即ち人を斬る。殺す。
この手に握る剣が、そうやって我が身を守ってきた。
それが戦いで、殺し合いで。
結局何が後に残るのかなんて、あの時は考えていなかった様な気がした。

ただ目の前に迫ってきた相手を殺すだけ。
斬って、殺して、最後に敵の軍を束ねる奴を殺せば終わる。
早く終わらせたかったから、自ら敵の軍の中へ飛び込んでいった。
それがどんなに無謀である事かすら、忘却の彼方に消え去っていた。







「死ねっ!!」
ぐわっと迫ってきた剣をひらりとかわしてケントは縦に相手を斬る。
ぶつりと鈍い音がして一気に鮮血が吹き出すのを見届ける前に馬の手綱を翻した。
翻してからぱっと軽く薙ぎ払う様に剣を振るうと、それが見事に首筋に当たった兵士達が崩れ落ちた。
その崩れ落ちる音は何かが潰れる音の様で、耳を塞ぎたくなる。ああ、またこの感覚だ、と思うだけで不思議と顔は歪む。
今自分はきっと神に背く様な事ばかりしているんだとか、じゃあ結局こうして戦っている自分達は全て地獄へ落ちるんだろうとか、下らない思考は浮かぶばかりだった。
そのうち、その隙を見抜いた者が居たのか背後から金属音が高く響く。

「ケント!!」

ずしゃ、と音がして振り返った時にはとっくに相手は息絶え血だまりをその場に作っていて、セインはやれやれといった表情を見せていた。
「すまない……」
有難う、ではなく謝罪の言葉が口から零れる。こんな殺し合いでお礼を言うのは嫌だったからだ。
「さっきからそればっか言ってるなぁ」
「お前に助けてもらってばかりで…」
ケントは、彼を直視出来ずに顔を逸らした。どれだけ自分が情けなく映っていても、本当に今自分は情けないのだからそうする事しか出来ない。
「……お前、このまま前に出るなよ」
その言葉に思わず反射的に顔が上がってしまう。そして彼の影を落とした瞳と目が合った。
「っな!そんな事――」
「今の状態で出られたら足手纏いだ」
少し怒っている様な表情の彼の言葉は重く、ケントの体にぐわんと響いた。
「……」
「…心の整理がつくまで後方で指揮でもとってた方がいい」
セインの言葉は間違ってはいない。その言葉に傷付かなかったと言えば嘘になるが、このまま足手纏いになってしまうのだけは確かに避けたかった。
それに、彼の厳しい言葉は彼を心配していての事だとはよく分かっている。
「…分かった。お前も無茶だけはするなよ」
「その言葉はそっくりお前に返しておくよ」
セインは苦笑して、すぐに来た方へと戻っていき戦う者達に紛れてその姿は見えなくなった。







それから暫く、戦闘は此方が有利に進み、みるみる敵の攻撃が弱まっていった。次々に敵軍の死体が山の様に積み上げられていく。
この混戦の中で誰かが丁寧に邪魔だからと積み上げている訳ではない。騎馬に蹴られて転がされたり、斬り殺され吹き飛ばされた首などが不思議と積み重なっていくのだ。
それにつれて此方の士気は上がっていく。
遠くにに見える味方の軍旗が堂々とはためき、飛び交う血をも吸って目立っていた。――皮肉なものだ、と思う。今更あの旗の事を思い出すのだ。
あの頃――初めてあの旗を見た時は、白い色に近かった。しかし今はその欠片も残っておらず、ほぼ真っ赤に近い。
お陰でキアランの騎士団の掲げる旗は元から赤い旗だったのかと思われるくらいだ。
もう随分と、あの旗を掲げて自分達は戦ってきたのだ。
ただその先にある勝利だけを信じて、突き進んだ。
その道が間違ったものだとは思わなかった。旗を掲げた事で、己の迷いを断ち切ったのだ。
あの旗は、自分達の苦しみを吸ってあれ程までに赤く染まったかの様に深く赤い。
だからこそこの生と死が混ざりあう戦の中でも一際目立って見えたのではないかと、ケントは感じた。


自分はこれから先どれだけあの旗を見る事になるのだろうと、ふとそんな事が頭を過った時。

「隊長!!後方から一小隊が現れました!!」
「!?」
息を切らせて後方にいたと思われた一人の騎士が叫ぶ。余程急の事であったらしかった。
「どうしますかっ、後方の仲間が次々に倒れています…!!」
騎士が言い終わらない内に、後方でドドーンという爆発音が響いた。
どうやら小隊とはいったものの何か策があるらしい。
「すぐに此方も小隊と共に向かう、それまで防衛に徹せよ!」
「はいっ!!」
ケントはすぐに戦闘態勢に入っていた小隊を集め、誘導する。泥が辺りにまき散らされ、強い湿った泥の匂いが鼻をついた。
やはり空気が悪い。元々この地帯は沼地が多いと聞いていた。先程は余り気にしていなかったのだが、どうりで異様に泥臭い訳だ。
ケントはその匂いに少し顔を渋らせてしまったが、すぐに真っ直ぐ先を見据えた。今は臭いの事など気にしている場合ではない。
後方に向かう程に地が泥濘るみだし、馬から危うく転落しそうになった騎士も居たのだ。列も大分乱れ始めている。
元々大急ぎで集めた小隊なのだが、このままでは本当に落馬する者が出ないとは限らなかった。
ケントはどんよりとした曇天を見やり、せめてこの状況下で雨だけは降らないようにと、強く願った。





敵の小隊が見えてきた所で、ケントの体はガクンと衝撃を受ける。
「くそっ……」
馬がヒヒーンと嘶き走るのを止める。これ以上はどろどろの沼地が広がり進軍は無理だと分かった。しかし、事は一刻を争うのである。
ケントはぐいっと手綱を荒く引っ張り、無理に馬を走らせた。
「お前達は馬から降りてもいい、出来るだけ迅速についてこい!」
それだけ言い残し、前屈みになって真っ直ぐ先に見える敵を捉える。再び剣をしゃんと抜き放ち、狙いを定めて構えの体制をとった。
ケントが狙いを定めたのは弓兵士だ。間もなく此方の姿を捉えるなり、ぱっと弓を放ってきた。それを剣の鞘で咄嗟に防ぐ。
ぐっと剣の握りに力を込め、勢いよく振り下ろす。
「ぐ、ぁ……っ」
弓兵士は一撃で崩れ落ちる。だが、致命傷を負わせたにも関わらずケントの足を引き摺り込む様に引っ張り、体制を崩させた。
ずるると生温い血がケントの足を濡らし、じわじわと赤く染まっていく。すぐにその相手の腕を引き剥がそうと足を乱暴に振るが、帰ってそれは逆効果となった。
「っ…!?」
ぐらりと体が傾き、弓兵士の重みがついに馬を暴れさせてしまった。気が付けば弓兵士はとっくに息絶えている。
しかし体制を上手く直す事が出来ずに、どちゃりと死体の上に落ちる。途端に鼻を強い血生臭さが包み込んだ。
すぐに体を起こし、頬に付いた血を拭う。まだ敵は居る筈であった。まだ気を抜くわけにはいかない。
途端に背後から殺気を感じ、振り返ると同時に剣が肩を掠めた。此方もすぐに剣を掴み直して呼吸を整えた。
完全ではないが、この状況に混乱してしまっては元も子もない。相手は剣士、鋭く長い剣が怪しく光を見せている。その剣には見覚えがあった。
それはキアランの騎士の持つ長剣である。馬上から剣を扱う場合は歩兵に合わせて攻撃が出来ない為、少し剣身を長くしてあった。
恐らく、此方の騎士を殺して奪った剣なのだろう。剣に付いている血はケントのものではなく、まだ新鮮な色をしていた。
剣士が構えを見せる。剣を抜き放つその瞬間を見抜いてぱっと手を腕から斬り離した。
そして相手を殺そうとする殺気から死への恐怖を映し出す表情を見届ける前に縦に体を斬った。
やった、と思った瞬間、相手は僅かだがにやりと怪しい笑みを浮かべ、弱いながらも腕を此方に伸ばしケントの体をぐいっと押した。
それが思ったよりも強いものであり、死ぬ直前の者だとは思えなかった。
しかしそれで完全に力尽きたのだろう、相手はそのまま沼へと頭から突っ込んでごぼりと沈んでいってしまった。
「……!」
ぐらりと重心が傾き、ケントの体は沼へと突っ込む。血の臭いではなく、先程よりも強い泥臭い臭いが鼻をついた。
「がはっ!」
腰が沈む程度のあまり深い沼ではなかったが、体制を崩したまま落ちた為に、これでほぼ全身は泥に濡れてぐしょぐしょになってしまった。
幸い剣を落とさずには済んだのだが、このままでは矢を避ける事すら儘ならなくなる。
急いで沼を出ようと足を動かす。すると後方からバチバチと何かの弾ける様な音が聞こえた気がした。
そして、前方からは先程おいてきた小隊の者達の姿が見えた。
「ケント隊長!」
「ご無事ですか!」
返事を返そうとケントが口を開き掛けた時、前方の騎士が逆に声を張り上げた。
「……隊長ッ!!後ろ……」
「!?」
振り返ると同時に、バチ、バチィッと何かが鋭く光を放ち迸った。避けられない。真っ直ぐにそれはケントを狙ったものだった。
「あああああッ!!」
全身に鋭い痺れが走り、一瞬で体の髄まで高熱で焼き焦がされた様な感覚に手の感覚も失い、剣がどぼんと沼に滑り落ちる。一揆に疲労が体を襲った様な感覚に膝を折ってしまう。鎧や髪の一部が焦げ、奇妙な臭いまでもが漂った。
恐らく雷魔法――――この泥水に濡れるのを狙って放つつもりであったのだろう。
全ては初めから仕組まれていた事だったのだと、その時ケントは理解した。
「隊長―――ッ!!」  
小隊の騎士達が走ってくるのが掠れた意識の中で見える。しかしそれももう長くは見えないだろうか。
そんな絶望的な状況の中で、無残にも後方から再びバチバチと雷の走る音が聞こえた。それも、先程よりも近くで。
おそらく、次に直撃を食らえば命はないだろう。死は目前に迫っていた。しかし、不思議にもケントは恐怖すら感じてはいなかった。


…惨めなものだな。
結局人を殺める道を選んだのは己なのに、それを恐れて此処で進むのを止めてしまうのだから。
これでは先に死んでいった仲間に顔向け出来んな……

何故か、そんな申し訳ない気持ちでいっぱいになって、切なくなった。


バリバリバリッ――――先程と同じ様に雷が敵の魔道士の手に集中し、今にも放たれそうになった瞬間。


「……ケントッ!」

ゴォッと風が巻き起こった。何かが烈風を孕んで滑空し、ケントの目の前を掠めていった。
それは槍――――セインの持っていた、手槍だ。



…何故だろう。
自分が今まさに死ぬであろうという時になって、不思議と神に祈りたくはならなかった。
昔の自分なら、とっくに神の事を頭に浮かべていただろうに。
私はお前がこうして来てくれるだろうという事を、きっと何処かで信じていたのだろうか。
それとも…期待していたのだろうか。

セインの放った手槍は見事に相手の掌を貫通し、雷を放とうという寸前で止められていた。
掌を貫かれてしまってはろくに魔法を放つ事も出来ない。相手はあまりに突然の出来事と、恐ろしい痛みで腕を押さえて呻き声を上げているだけだった。



「危ないなぁ、お前は」
「……すまない」
「一応あいつらに後の始末は任せたから、気にすんな」
相手が攻撃出来なくなったのを確認して、セインは馬から降りてケントの手を引っ張る。まだ先程の傷は痛んでいたが、立てなくはなさそうだった。
「これで何回目だろうな」
「何が」
「お前をこうして助けたのは」
「…分からん」
曖昧にそう答えると彼は僅かに微笑んで、
「――――祈った?」
と聞いた。何故こいつは唐突に人の心を読む様な事を言い出すのだろう。
「……別に、祈りはしなかったが」
「良かった。きっとお前の事だから、また神とかに祈ってたんじゃないかって」
「…昔なら、きっとそうだったと思う」
「だろうね」
彼はまた苦笑する。
「お前はどうなんだ」
ふいに、そんな言葉が零れていた。
「神に祈るかって事?」
「………あぁ」
「ないよ」
「ないのか?」
「うん」
確かに彼の生き方は完全に誰かに沿う様な生き方ではないし、本当に自由奔放な所が多い。寧ろ、そうでなければ彼らしくないとすら思える。
そんな生き方が出来たらと、何度羨ましく思った事か。

「神みたいな遠くて居るかも分からない存在に祈るより、お前や仲間に頼った方が身近に感じられるだろ」
何より現実にこうしてお前を助けられたんだし、そう言って彼は笑った。
「…そう、だな」
神に祈ったのでは分からない。
見えない存在を追っているだけでは分からない。
どうせなら――――。


「だから、今度は神に祈るんじゃなくて俺を頼ってよ、な?」



何故あの時、私は恐怖を感じなかったのか。
それは恐らく、お前という大きくて身近な存在があったからだ。
…もしセインが私にとって神であったら、こんなに彼の手は温かくはないだろうな、と思った。







「もう頼ってる、馬鹿」









End

最後ツンデレですか?これ。
つまりはケントとセインはお互いに信頼してるんだって事を書きたかったんだと思う。
神を冒涜とか…そんなんじゃない筈。



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