<未だ届かぬ手>








この男には、未だに追いつけぬ。
どうしたら、とだけ言葉が零れた。


「では、手合わせでもしてみるか」
「そうなされよ」

相手に不足はなし、と馬超は槍を回す。
慣れた手付きだからこそ、油断は出来ないという事を、彼は知っている。
…元より、痛い程理解している。



始まりは、いつも静かだった。
同時に、風を切るのはいつでもどうぞ、の返答の変わり。
しゃらん、と簪が揺れるよりも綺麗に、柔らかに、彼の腰は動く。
それは隙とも取れるし、魅力とも取れる。

だが、これは一瞬の事であり、隙と呼ぶにはあまりに短く、魅力と言うにはあっけない。
けれどもホウ徳はよく見ていて、それでまた。

「―――ああ、計算なされているのか、それとも」

……無の中で、自然に引き出されるものなのか。


口にする事はおろか、思う事もごくまれではあった。
他には見られぬ、彼特有の太刀筋とも似ている。
きっと、慣れていなければぞっとするくらいに目に映るのだろう。

だが、それは確実にその事実はホウ徳にもその気に触れていたのだ。
触発、触らぬものに祟りはなしとはまさにこの事なのだろうか。



「ふんっ!!」
終わりも、この時は同じ。
勢いよく弾き飛ばされた馬超の槍は、綺麗にカラーンと地に刺さった。

「…これで、46敗3勝か。後一回で手合わせも50回になるのだな」
清々しいくらいに、馬超は空を仰いでホウ徳を見やる。
「……そう、ですな」
それから、もう一度鍛錬してくる、と言って馬超はくるりと後ろを振り返った。
きっとその素顔は堪らなく悔しさで歪んでいた筈だった。
だからこそ、敢えてホウ徳は黙って追わずに見送るのである。
それも、いつもと変わらぬ風景、だった。


だが―――最近になって、酷くホウ徳はこの時に思う事があった。
無性にも、その背に追ってやりたくなる。
そして、御供致そう、とまで声掛けをしてやりたくなるのだ。



あまりにも小さい、そして幼い、彼の体を。
そっと、押してやりたくなるのは、歳をとったから。
きっと、それ以外には無いのだろう。
そう独りごちに決め付けた。


昔からの付き合いでもここまで人を思うのは無い事で、ホウ徳は僅かにその気持ちをむず痒く思っていた。
本当は可愛くてしょうがない、けれども彼はもう立派な若武者、そして馬家の大事な跡継ぎ。
それならばもう妻を娶ってもよい年頃は近いのだ。
こんな時に息子同然に甘やかすのも、それはそれでどうか、と思うのも事実だ。
彼を愛しい、と思えばこその親からの目と同じ事である。




「――ホウ徳殿」
気が付けば、目の前には先程別れた筈の彼の姿がある。
「馬超殿?如何なされた」
「いや……」
馬超はそれっきり黙り込んだまま、ホウ徳の傍で突っ立っている。
その姿が余りにも小さく見えて、思わずホウ徳は彼の肩を優しく抱く。

「此処では……部屋に、戻りましょう」
「そう…だな」
僅かに、ホウ徳の大きな腕の中で蒸気する体。
ああ、もっと抱き締めて、微笑みかけてやれたら、とホウ徳は思わずにはいられなかった。


「お疲れになったのでは?今茶を出します故」
「済まんな」
静かに、いつもと変わらぬお茶を差し出すと、馬超は静かに湯呑に口を付ける。
あちっ、と微かに声を漏らした唇は、濡れて赤みを増していた。

「しかし、どうしてまた?」
「………」
「馬超殿?」
すると馬超は静かに熱いお茶を起き、静かに話し出した。


「…この頃、俺は変な感覚を持ち始めた様で」
「……?」
ホウ徳は、その意味が分からずに自身も茶を啜る。

「ホウ徳殿と、一緒に居る時が…何よりも、落ち着くのだ」
つまり、優しい気持ちになれるのだ、と馬超は少し恥ずかしそうに言葉を紡ぐ。
「…それは」
それが女性に対する気持ちであったなら堪えられ様にも、その相手が自分では何とも返せない。
暫し二人の間には静寂の時が流れた。

「…ホウ徳殿は、これをどう思われる…?」
「某としては、何とも言えませぬが…」
「きっぱりと、邪魔だと思うのなら言ってくれて構わぬ」
「いいえ、その様な事は」
「ホウ徳殿…」
馬超はそっと、上目使いで彼を見上げた。
その目は何かを切実に訴えているのがよく分かる。

なんて可愛らしい反応が返ってくるのだろうか、とホウ徳は頬が緩みそうになるのを堪えた。
口元は湯呑で上手い事隠す。
馬超はまだ恥ずかしい様で、頬が赤みを増している様に伺えた。
とうとう、ホウ徳は自ら口火を切った。

「……某が居て心が安らぐのであれば、いくらでも御傍に」
「本当か?」
馬超は茶が冷めるのも気にせずに、ホウ徳の傍へ寄る。
お互いの、温もりが伝わっていく気がして已まなかった。

「ああ、こうしていると何故だか幸せになれる……」
「…それは他の者に」
「何故だ?ホウ徳殿はそう言われるのがお嫌なのか?」
馬超は微かに悲しそうな表情を見せたのに一瞬ホウ徳は内心で慌てた。
「そうではありませぬ。その様な言葉は、もっと大切な御方に、と」
「…俺にとってはホウ徳殿が一番大事な存在だから言ったのだが」
「……それは、真に…」
だがしかし、と微かに思って已まない心を、無理にでも遠ざける。

「父上はな、ホウ徳」
「…は」
「いつでも構わぬ、だが近いうちに妻を娶れ、と言うのだ」
ああやはり、とホウ徳は何も返さずに聞く。
「俺にはホウ徳殿が居てくれるだけでいいのに…」
そう呟いた口調は、酷く子供染みていて。
「馬超殿…それは」
「分かっている」
同時に、返された口調は逆に大人びていて、締りのある声。
一体何時の間に、こんな巷間にも珍しい世俗術を学んできたのだろうと、不思議に思う。

「でも、この気持ちは変わらぬ。…俺は、ホウ徳殿の傍に居たい。それは本心からだ」
「馬超殿……」
馬超の、真っすぐな心は此処にあるのだと、ホウ徳は悟らずにはいられなかった、それでも敵わぬ事はあるのだと。
拒みたい訳ではない、だが己の身に刻まれた威厳がそれを許さない。
「ホウ徳殿は、こんな俺を気持ち悪いと、思われるか」
まるではいと答えればそれでも構わぬ、とまで言われそうなくらいの、過ちを犯した覚悟が、映る。

「いいえ」
これも、本心からだ。
「だとしたら、貴殿にとっての俺とは一体何なのだ」
「……心からお慕いしております、それでも」
愛おしい存在。今までには無き、真実に紛う事なき形。

「お前は、何処までも一歩退くのだな」
同時にお前の場合は何をしても家臣として、とかほざくのだろうとまで、余計に付け加える。
馬超の顔は自分には見えていない、けれども彼は微笑んでいる。
きっとではなく、それは勘でしかない、だが絶対にそうだろう。
ホウ徳は分かっていた。それだけ、彼の傍に在り続けてきたのだから。
彼は間違いなく己の本心を欲しているという事も、同時に。

「…では、許して下さいますか。貴方を、一人の男として愛する事を」
これは余りに出過ぎた願い、だが言葉に出してしまってからでは遅い。
それでも寧ろ、自分はこの事を何よりも望んでいたのかもしれなかった。



「ホウ徳殿……ああ、好きだ、好きなんだ」
漠然と、機械の様に繰り返される、媚びた愛嬌。
それが寧ろ今は嬉しくて、互いに微笑み合って、初めの口付けを交わした。
二人の隙間に香る、仄かな甘み―――それは。




それは、“いつでもどうぞ”の答え。







「馬超殿」
「何だ」
「先程の言葉、あれは誰にでも申されるのか」
「ああ、好きだ、という事か―――」
すると、呟くように言ってから彼は静かにホウ徳の体に手を回す。
くすくす、と惜しまずに漏らした声も冷たいのに凄くくすぐったい。

「だが、馬鉄や馬休には言う、時もある」
「誰にでも言う事はお控えなされた方が宜しい」
ホウ徳は気付かれぬ様に、顔を顰めて言う。
「…そうだな。でも、ホウ徳はそれらを全て足したよりも好きなのだ」
「それは光栄。ですがあまり関心はしませぬぞ」
「ああ、じゃあこうしよう」


“………ホウ徳は、愛している。”


「!」
「…こうすれば、一言でも伝わるだろう?」

……ああ…なんて、愛おしい人なのだろう。
ホウ徳はそっと笑みを浮かべずにはいられなかった。
そして、この方にお仕えできる事は、何よりも幸せな事なのだと。


願わくば、この肩を離さぬ様に、いつまでも。
ホウ徳はその言葉に答えるかわりに、そっと“同じ気持ちに”と目を閉じた。





「ホウ徳殿には、叶わぬな……」




それだけ零して、馬超もそっとその時ばかりは目を閉じた。







End


あれれれ…もっと短くするつもりだったのに…あららん。
ホウ馬はとにかく、ほのぼのさせたい一心でお題連載してみます……!
馬超たんの愛情表現はきっと、ホウ徳殿にはしっかり向けられるんだと信じて疑っておりません(爆



戻る