「……あの馬家を、ですか?」

「そうだ」


何処かの立派とも言えぬ、どちらかと言えばみすぼらしく見える建物の片隅。
辺りは、ちらちらとおぼろげな蝋燭の火に照らされている。また、僅かに覗く外からの月明かりがあった。
それらのお陰で、その場に居る相手の姿は伺う事は出来た。

「…この時期に、というのがまだ納得できませぬ」
「納得せずとも構わん。儂は儂の思惑のままに、動くのみだ」
「これ程お聞き致しましても、やはり止められませぬか……」
溜息を混じらせ、諦めた様な口調で返される。
そしてはたり、と生温いくらいの風が舞う音がした。
「当たり前だ、儂は案外こういう類には貪欲なのだからな」

そう零した口元が、にやりと歪み、再び闇に溶けた。



―――欲しい…


欲しい、欲しくて堪らない………

あれを我が手に入れる為ならば、何だってしてみせよう……




そう、己の心に、深く深く、刻み付けた。
まるで呪いの、刻印の様に。








暗夜嚆矢














「――父上、本当に行かれるのですか?」
そう呟くように問う己の息子、馬超は寂しげにその言葉を口にした。
「ああ。…心配するでない、終われば帰ってくる」
そう返して、馬騰はそっと息子の頭に手を乗せた。
二人の間にぶわっと砂が巻き上がり、辺り一面をぼやけさせた。

「……俺も、連れて行っては下さらんのか……」
まだ名残を惜しむ様に、普段はあまり好かぬ父の優しい手をそっと肩に受け、もう一度問うた。
「まだ、歳若きお前を連れて早々に危険を冒させる訳にはいかん」
…己自身、この息子が共に戦場に出られたのならば、どれ程頼もしく見えるのであろう、とは思った。

けれども、彼はまだ15歳にもならぬ若者。
戦にこそ出した事は無いにしろ練習ではどの仲間よりも強く、その槍の達筋と言えば馬家でも馬騰に次ぐ実力の持ち主だ。
戦場に連れていこうと思えば、今すぐにでも初陣に出させる事は容易い事であった。
それでも、此処に留まらせたい一心が残る。
もし、この日の戦いでこれからという命を一瞬にして散らせてしまうのであれば、己は一生その傷を背負う事になろう。
そんな事は、どうしても避けたかった。

「では、行ってくる。…留守を頼む、馬超、我が息子よ」
「……はい、父上。父上も……どうか無事でご帰還を」

馬超は涙は見せまいと、精一杯微笑みを持った。
その表情には僅かに名残惜しむ様な影が重なった気がした。馬騰はふっとその彼の頭に手を伸ばし、撫でてやりたい衝動に駆られたが、寸での所で止めた。年端もいかぬ子であれど、精神的に見れば彼ももう子供ではない。
「ああ、お前の為に、一族の未来の為に……必ずや、約束しよう」
この愛おしき息子の笑顔を見られるのならば、再び、必ずこの地に戻ろう。
戻ってきてみせよう。戦いに、勝利して。
そして、喜びを分かち合おう……そんな未来を思い描き、馬騰はその地を旅立った。


「……父上。次に会う時は、きっと………」

最後まで言葉にならずに、それは風と共に先へと消えていった。







******



至る場で、武官やら文官やらが忙しく動き回っている。

「…武器、馬、共に不備はありますまいか」
「ええ、存じ上げました通り」
史家はさらさらと帳面に事柄を写し取り、手際良く物事を捌いていく。
指揮官は黙って会釈をし、必要な答えのみ返す。返答は速やかに進められ、もたもたと遅れて点呼する者も無かった。
これも魏軍の美点とも、畏怖たるものの一つとも数えられている。
勢力では多勢に劣らぬまま、精鋭が揃う本拠地では尚更の事。

「…父上、本当に…良いと」
「今更何を言うか、曹丕」
そう答うるは、曹操。問うたのは、息子ながらにして一群の一将、曹丕だった。父曹操がそう言うも、なお訝しげな表情は消えない。
「大部分の兵士もそう思わざるをえないのでは?…事実、私の言う事に誤りがあると?」
「ふ……それが今更、と言うのだ」
曹操は僅かに顔を上げて答える。
「お引き返しはされぬと」
「当たり前だ」
「……父上は昔から我が強くて困る」
呆れた様な口調を踏まえ、曹丕も諦めた様に追及するのを止める。
「済まぬな、これが性分故に」
そう答えつつ、笑みは隠す事が出来なかった。


手に入れられる。

もう少しで、余の元に……


早く、早く。
この胸に沈む鼓動が、熱を持って再び我が身に染み渡る。


「孟徳。全て、支度は整ったようだ」
曹操を我に返したのは夏候惇の声。
彼は疑惑が多く囁かれるこの遠征を前にし、酷く落ち着き払った態度を崩さぬままだった。
無論、先程口にしていた曹丕と同じように、他の武将達にとっても同じ事ではあったのだが。
「うむ」
そして、合図を下す為に、兵士達の前へと歩み出た。
その後方につくのは、家臣である司馬懿、夏候惇、賈クである。
更にその後には、典韋、許チョに曹仁。
曹操は自ら剣を振り上げ、その声を轟かせた。

「――――出陣ッ!!!」


ああ、これ程までにこの空は蒼く、澄んでいたか……と今更ながらに、感嘆の声が漏れた。
日がいつも以上に眩しく、感じられた。
次に日の出を見る時は、我が願いが成就されている事を。
唯、それだけを望み、自身も用意されていた馬に跨った。









「…岱、父上は今…どの辺りにいらっしゃるだろうか」
「若ぁ、その言葉は先程からもう何回も聞いたよぉ?」
そう同じ答えを返し、馬岱は苦笑する。
「今回は激戦が予想されると誰かが漏らしていた。…心配にならぬ訳がなかろう」
馬超はぼんやりと外の砂塵を見据えつつ、足はそわそわと浮き立っている様子が伺える。
「確かにそうだけど…」
「それにな、岱」
「はい?」
「何だか…今回は、不思議と嫌な気がするのだ」
「嫌な気が?」
そう言う馬超は、本当に不安だ、と沈んだ顔を見せていた。
「ああ、やはり俺もついてゆくべきであった…我儘でも、父上と」
そう呟く様に訴え、拳を握り締めていた。
「心配ばかりしてちゃ駄目だよ、馬騰殿は必ず無事で帰ってくるって!」
馬岱はわざと明るく言う。馬超の言う不安は、確かに馬岱自身も感じてはいたのだ。
「確信が持てぬ、今回ばかりは……胸騒ぎが、止まぬのだ、岱」


ざわざわ、ざわざわ………ざわり。


「胸騒ぎが……?」
「ああ」


いやだ……助けて……………


「っ、やはり………!!」
そう呟くなり、馬超は身を翻す様に立ち上がって、あらゆる武具を取り出した。
「な、何するの若!?」
「止めるな岱、俺は我慢ならん!今からでも――」
「冗談が過ぎるよっ、一旦落ち着いて…」
「岱!」
馬超の、鋭く凛とした声が飛ぶ。
その表情に、馬岱は一瞬躊躇するが、すぐに馬超は元の表情に戻った。
戻ったというよりかは、少し悲しげな表情になったのであろうか。
「……後悔してからでは、遅いのだ」
そう言った馬超の声は、酷く穏やかだった。
「……」
馬岱は、すぐに言い返す事が出来なかった。その表情に気押された、というのでも少し違う気がする。
ただ、その表情が酷く綺麗で、怖いくらいに。
「大切な物を失ってからでは、何も…取り返せぬ。そうだろう?岱」
ここですぐに駄目だと諭せば、すぐにでも崩れ落ちてしまうくらいに。
「…若………」

その通りだった。
間違ってなど、いない。
馬超の言った事は全く持って事実、納得せざるを得ない理由であった。
だが、馬騰にも任された事である…理不尽と言えば、理不尽かもしれない。


「……分かったよ」
馬岱は、静かに視線を下ろした。
「岱…」
「だけど…俺も、一緒にね。いくら若が強いからって、一人で向かわせられないもん」
そう言って誓いを改にし、供手する。すると間もなく上から声が聞こえた。
「………すまん」
「では、発つ前に約束して。…馬騰殿と共に、またこの地へ戻る事を」
「ああ」
馬超は微かに微笑み、有難うと付け加えてすぐに武装の支度を始めた。
それに遅れぬように、馬岱もすぐに行動し始めた。
馬岱にとってもこれが、馬騰が率いずに戦う実際の初陣となる。
馬岱は己の腕が震えるのを必死に隠していた。
自ら死に向かう行為をする………とはこういう事なのだろうかと。




実は、まだ馬超は馬岱意外誰にも吐露してはいない事なのだが、幾度も戦場を駆けた事があった。
初めての出陣が父の許しを乞うよりもずっと早かったのだ。
未だに父の許しは出ていないが、それでも何度も、ばれない様にみすぼらしい一般兵の姿で赴いていた。
世間であっても、父であったとしても、その年で生と死の狭間…戦地へ赴くという事は、異例であった。
というよりも寧ろ、全く無かった事なのである。
馬超は一人の男を追って、それに続くかの様に。
どうしても自身の力量を確かめたかったが為にずっと年上の兵士達に紛れ、古めかした鎧を身に纏い、槍を振るって戦った。
戦場は、本当の殺し合いは――当時まだ穏やかであった馬超の心を、精神を、酷く変化させるものとしては十分過ぎていた。
この頃から馬超は更に力を求め、技能を高める為に稽古を増やし、更に体力をつけた。
お陰でこの頃にはもうすっかり一軍を率いる事の出来る力を兼ね備えていたのである。
ただそれを、実際は未だに実の父には打ち明けていないのだった。
影からこの事実を知りつつ、密かに彼を支え、認めている者達も数多く居た。
それでいて今の今まで馬騰にこの事が露見しなかったのは、直接口には出さずとも彼はやってくれる、と兵士達自らが信じられたからなのだ。
今やそれまでの努力はより彼の潜在能力を引き出させる結果となり、誰もが目を見張る程になった。
人を統率し、惹き付ける覇気、というものがこの頃から既に彼にはあったのだ。


その姿はいつの日か、“錦”と呼ばれ、知る人が聞けば恐れられるその名へと変貌した。
「西涼の錦……彼は錦の如く戦場を駆ける男―――錦馬超」と。
酷く美しく、恐ろしく強い。その姿はまさに錦を纏う神獣の化身であると。

それが、今になって存分に発揮される時が来たのだった。
不思議と馬超の心は緊張する事も無く、唯平常―――平静さに包まれていた。
普段は布で隠しているが、戦に出る時は兜を被る。
こんな時の為にと、馬岱がわざわざ立派な兜や鎧やらをを用意してくれたのだった。
  さらりと純白の房が揺れ、かちゃりと金属の擦れた音が小さく響く。馬岱に感謝しながら、それらを身に付ければ、より彼の凛々しさや美しさは増す。
そんな姿は、馬岱にとってとても眩しいものであった。自分がついていくべき者は、まさに彼であると確信させてくれる。
「似合ってるよ、若」
「すまない、岱」
「ううん」
「旗は」
「此方に」
旗を持つ手が震えるのをぎりっと引き縛り、馬超には悟られまいと隠し通そうとする。
だが馬超はあっさりと、
「……怖いか?」
「……!」
驚いた目で見返すと、馬超はやはり優しい顔で言う。この御方は武芸だけではない。他にも秀でる所があるのだ。
「無理しなくてもいい。俺も初めはそうだった」
「…若……」
「だが俺の場合は武者震い、だったがな」
くっ、と思わず堪えず漏らした声。
「若ってば………」
「これからゆっくりと、お前の覚悟を示していけばいい」
「はぁ…」
何だか慰めになっているのかプレッシャーを掛けられたのか、何とも分からぬ反応を示してしまった。
すると馬超は己の直槍を引き出し軽く布で汚れや埃を払い落した。日々鍛錬から実践まで、幅広く使っていた槍だが、随分使い古されている様には思えない。
本人の扱い方の違いなのだろうな、と馬岱は関心した。いつしか血筋を超えた渇仰に、自分が嵌っている事を。
この時は、まだ確認さえ出来ていなかった。愚かにも。

「――馬岱、用意はいいか」
「勿論!」
「……参ろう」
静かに、数多くの兵を上げ、ついに馬軍は本領発揮に入ったのであった。
鮮やかなくらいに晴れ晴れとした、西涼の一日である。















End


西涼の長編序章です〜これからが大変になりそうですよ〜!
基本は多分曹馬かな.岱超もちらほらあるかもしれませんが...
狂気と狂喜の物語になると思います. 2010,9,30

追記的な...馬岱が脱モブしたので口調等を直しました 2011,11,26



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