誰ぞ仄か差す、春の暉










立春を迎えたキアラン領。
春を迎えたからといって、特に何があるわけでもない。
花が芽吹き出す気温でもない。つまりはまだ冬と変わらない程度の寒さが続いているのだった。


「あーあ、やんなるよ、寒いし」
「それはもう何度も聞いた」
相変わらず、傍らに居る相棒の反応も、知れたものである。お前に構ったところで何があるわけでもないと、言わんばかりに視線すら合わせてくれない。
その分かりきっている筈の行動にも、セインは尚更詰まらない、と剥れるのである。
「だったらケントももう少し違う反応してよ」
「生憎と、そんなことは必要ない」
「ちえっ」
先日のこと、ウィルは「もう春になったんですね」と、そんな事を口にしていた。行動こそまだ表れていないものの、心の内では確かにはしゃいでいるのだと、セインは思った。
元々、正確に表裏のない青年である。その何処か幼さを感じさせる顔には、素直な気持ちが特に浮かび易いのだと本人は気付いているのかどうか。
いずれにせよ、春だという事実はそこにあった。あるだけで、自分には何も変わったことはない。
傍らに居る相棒とも、もう少し親密に過ごしたいという気持ちはないわけではない。というか寧ろ、あると言い切ってしまった方が楽なのだろうとは思う。
だが、そんな事をして何になるのか。相棒は恐らく何もしまい。そこがセインにとって一番もどかしく、何処か寂しいことなのである。
この奥手な相棒との間には、どうやらまだ春は訪れてきていない。そうとしか、今は感じられなかった。だからといって、遠くに急ぐ理由もないのだが。
まぁゆっくり雪融けを待つ事にしよう、とは頭で考えつつ、ここ最近の日々を過ごして来ているセインなのだった。
そんな彼に合わせてか、相棒の方も特に何も言ってきてはいない。そういえば最近、遠乗りに出掛ける事も久しくなっていた。
久しぶりに誘ってみようか、とも思った。まだ口に出してはいない。

ふいに、喉が渇いた。やけに乾燥している。外は寒く、ここのところ余り雲を見ていない。空気が澄み渡っていて、雨があまり降らない。
部屋には、花の活けてある花瓶があり中にこそ多少水が入っているものの、決して水分が多いわけではない。従って、湿度も高くないのだ。
くるりと向きを変えた。ドアノブに手を掛ける。
「どこへ行く」
「ちょっと、水分でも取ってくる。…乾燥してるからなあ」
「そうか」
同じ部屋に居るくせに、大した会話はなかった。いつもというわけではないが。だが、何気なくセインが部屋を出ようとすると、ケントは気に掛けてくる。
そういう何気ない相棒の癖が、セインは心地良くもあった。



食堂には、食材の匂いが満ちていた。これから夕食の準備にも取り掛るのだろう。時刻はもう、茶菓子の時間を過ぎていた。
勿論、飲み物もいつでも出せる様にしてあった。だが、ふとセインは思い出す様に、厨房のコックの1人に声を掛けた。
「あのさぁ、氷とかってある?食べれるやつ」
どうせなら、暫く口に含んでいられるものの方がいい、と咄嗟に思ったからだった。飲み物は喉を潤すには一気に呑んでしまうだけだ。
それなら、飴の様に口に含められて、なお且つ甘みではなく水に変わるだけの氷が良いかと思った。
「はい、ありますが。…氷だけでいいのですか?」
「うん、構わないよー」
間もなく、透明なコップに氷が幾つかカランと音を立てて入れられた。「こう寒い気温なのに、氷ですか」とそのコックには多少笑われたが、セインはへらりと笑い返すだけだった。
氷は、程良く涼しい冷気を纏っていた。セインはほんの少しの間、口元に当てて冷気を感じた。冷たさが滲んできた所で、口に含む。それはすぐに水へと味を変えていた。
口に入れる時、少しだけ唇に氷がへばり付いた感覚があった。べっと剥がして口の中に放り込む。指にもひたりとくっ付いてくる。良く冷凍庫で冷えていた氷らしかった。
次第に口内で溶け始め、小さくなった氷は最後まで舐めずに噛み砕いて水にした。心地良い冷たさの水が喉を通り渇きを潤す。こくんと、呑みこむ音が幾度かした。
差し出された氷を全て喉に通してしまうと、セインは軽く礼を言って厨房を出た。
廊下ですれ違う人は、1人も居ない。この時間帯は、午後に幾つか大部分の部隊を外に調練に出させ、その中の数部隊の兵を城内の見張り等に当てていた。
本来ならその中でセインもケントも入っている筈だった。が、ウィルが、たまには暫く二人でゆっくりしていて下さいと言ってくれたのだ。だから何かしたい、という気持ちも特に沸き起こりはしなかったのだが。ウィルにお礼くらいは一応、言ってあった。
「…さむっ」
セインは早足で外の冷気に冷え切った廊下を通り過ぎた。



ドアを開けると、ケントは窓の外の様子をぼんやりと眺めていた。
此方が入ってきて、暫くしてケントは此方を向く。その視線が、セインの顔で止まった。彼の瞳がきょとんとした目つきになっている。
「…どしたの」
「気付いていないのか?…唇、そこだ」
ケントは自分の唇を指差し、セインに唇の位置を教えた。そこにセインが指を当てると、ぬるっと指が滑ったような感覚が微かにあった。
触れた指を見ると、赤い血がぺとりと付いていた。
「さっき、切ったのか?」
「あー…氷を食べたからかも」
そういえば、唇にくっ付いた氷を無理に剥がしたな、とセインは思い出す。一度血が出ていると分かると、それが空気に触れる感覚も分かった。
それは余り気持ちの良いものではない。すぐに唇を舐めてしまおうと、思った。舌をちろっと出し掛けて、違う何かが唇に触れた。

「……へ?」
「鉄の味だな」
何を今更、と思い掛けてはっとした。ケントを見ると、やはり唇に血が付いている。今、自分が何をされたのか。少し遅れて、それは理解出来た。
「今……もしかして、」
「言わなくても、分かるだろう」
ケントはセインから顔を逸らし、唇に付いた血を自分で舐め取っていた。何処か彼の顔は赤かった。恐らく今の自分も赤いかもしれない。
その姿に、どこかセインはざわりとしたものを覚えた。そそられたのだろうか。しかしセインは少し困惑した。行き成りこう不意打ちされた形では、反撃にもすぐに及べない。
「つまらなそうな顔を、していた。だから、…その、たまにはお前の不意を突いてやろうと、思った」
しどろもどろになりながらも、ケントはそう言い切った。気を、使ってくれた様にも、受け取れた。
セインは、思わず頭が固い奴だなあ、と思って微笑んだ。だが、こういうところもある。小さな事だったが、それは何よりセインにとっては嬉しいものだった。自分にはなかなか出来ない事でもある。
「…そうだね。でもまだ飽きなさそうだよ、お前と居るとさ」




前言撤回。そう、思った。
春は、何処かで芽吹いている気がしたのだ。また、それは芽吹くというよりほんの一時の風であったかもしれないが。
先の遠い冬ではない。
そう分かっただけで、セインは冷えていた奥の気持ちが、密かに温まる想いがした。










今回はケントから頑張って押してもらいました、些細な気持ちの在り様なら、ケントもかなり負けてないと思うんですが.
ケントに構ってもらえずしょぼんてするセインも可愛いですけど。襲いたくなるのは私で(ry 2012,2,25



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